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焼け跡の喫茶店で、芸術家たちがインスタントコーヒーをすすった日

歴史の断面アートカフェ文化

朝鮮戦争直後、瓦礫の街に戻ってきた作家や画家たちが、廃材の喫茶店「タバン」で芸術と生存を語り合った。経済成長に飲み込まれる前に存在した、知的な避難所の記憶です。

トランスクリプト

明洞大聖堂の坂が、騒がしい街のすぐ隣に「静けさ」を置いている場所だとしたら。これは、その静けさを、瓦礫の中で人が作り出していた頃の明洞の話です。

時計の針を、1953年の冬まで巻き戻してみます。休戦直後のソウルは、占領と奪還を何度も繰り返した傷がそのまま残り、街には灰と砕けたレンガが広がっていました。

ところが、この世界の終わりみたいな風景の中で、明洞は喪に服す場所にはならなかったんです。家も家族も、これまでの作品も失った芸術家や作家たちが、焼け跡に吸い寄せられるように戻ってきた。彼らに残っていたのは、言葉と絵にしがみつく力だけでした。

彼らの文字通りの「リビングルーム」になったのが、「タバン」と呼ばれる喫茶店です。今のきれいなカフェとは違います。拾い集めた木材でツギハギした、薄暗くて煙たい部屋。傷だらけのレコードからクラシックが流れていて、コーヒーは闇市のインスタントをお湯で溶かしただけ。それでも、そこは住所のない人たちが、日中、身体を置ける数少ない場所でした。

タバンのテーブルでは、生活の相談も、文学雑誌の打ち合わせも、作品の読み合いも、全部が一緒に起きます。実存主義とかモダニズムとか、難しい言葉はたぶん後から付いてきたラベルで、本当は、どうやって今日を生き延びるかを、言葉で確かめ合っていたんだと思うんです。

詩人のパク・インファンも、その中心にいた一人でした。爆撃で穴だらけの街を、きちんと仕立てたトレンチコートで歩き、虚無と美学の両方をまとっていたと伝えられています。無一文に近くても、姿勢だけは崩さない。その感じが、戦後の明洞には似合ってしまった。

作家だけじゃありません。画家のイ・ジュンソプも、この頃の明洞に出入りしていました。キャンバスが買えないから、銀紙に刻むように絵を描いた。いま国宝級と言われる作品の原型が、煙たい部屋の片隅で、飢えと隣り合わせに生まれていたわけです。

夜になると、彼らは「デポチプ」と呼ばれる安いマッコリ酒場へ流れていきます。明洞の酒場の中には、払えないのを分かったうえでツケで飲ませてくれる女将さんもいた。いわば、薄い濁り酒が、戦後の芸術のスポンサーになっていたんです。

でも、この楽園にトドメを刺したのは次の戦争じゃありません。皮肉なことに、経済成長でした。1960年代以降、明洞は金融と商業の中心へと姿を変え、土地は買われ、古いタバンや安い酒場は消えていきます。家賃が上がり、飢えた芸術家たちは、別の街へ散っていった。

いまの明洞芸術劇場の近くに、当時の芸術家たちを讃える小さな記念碑が、ひっそりと残っています。眩しすぎる経済のシステムに飲み込まれてしまった、あの知的な避難所の、目に見えにくい影みたいに。

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