明洞のど真ん中に立つと、眩しい音と光に、感覚がいっぱいになります。屋台の匂い、店先の呼び込み、スピーカーから漏れてくるK-POP。さっきまで歩いていた、あの眩しさの真下です。
ところが、そこからほんの数十メートル、脇道に入って坂に差しかかると、足元の感覚が突然変わるんです。平坦なアスファルトが、急な坂道になる。少し上るだけで、坂の下のノイズが嘘みたいに遠ざかっていく。見上げると、明洞大聖堂の大きな影が落ちています。
この坂は、ただの「雰囲気が変わる境界線」じゃありません。1987年の6月、韓国の民主化を求める動きが臨界点に達したとき、ここは人々を守る“喉元”になった場所でした。
当時、デモの現場では催涙ガスが飛び交い、追う側と逃げる側が入り乱れていました。鎮圧に動いたのは、「白骨団」と呼ばれた部隊です。私服に紛れるような格好で群衆の中に入り、狙った人を棍棒で殴りつけ、引きずるように連行する。その存在自体が、恐怖でした。
追われた市民や学生たちが、数百人規模でこの坂を駆け上がります。そして、大聖堂の敷地に逃げ込んだ。
警察は坂の下まで押し寄せました。ちょうど今、観光客がショッピングバッグを持って写真を撮っている、あのあたりまで。でも、そこから一歩が出なかった。
止めたのは、金寿煥(キム・スファン)枢機卿です。小柄な人でしたが、その道徳的な権威は絶対的でした。政府側が「強制鎮圧のために部隊を突入させる」と通告に来たとき、枢機卿はこう言い放ちます。
「警察が入ってくるなら、まず私を踏み越えていけ。私の後ろには神父たちがいる。神父の後ろにはシスターがいる。学生たちは、そのシスターたちのさらに後ろだ」
これは、きれいな言葉で場を収めた、という話じゃありません。政治的に、完全なチェックメイトでした。当時の軍事政権は1988年のソウルオリンピックを控え、国際的な視線に耐えられない。機動隊が大聖堂に突入して枢機卿や聖職者を傷つける映像が世界に流れれば、政権は致命傷を負いかねない。
だから警察は、坂の下で止まるしかなかった。
そこから数日間、ひりつくような膠着が続きます。大聖堂の中には逃げ込んだ人たちがいて、外には警察がいる。じゃあ、その間どうやって持ちこたえたのか。
支えたのは、明洞の商人たちでした。路地裏の仕立て屋や靴屋、飲食店の主人たちが危険を冒して物資を運び上げる。近くの市場からは、鍋いっぱいのスープやご飯が届く。昼休みにやって来た会社員たちが、トイレットペーパーや薬、現金をバリケード越しに渡していく。下の商業の熱が、上の避難所の命綱になっていました。
そして入口では、修道服のシスターたちが肩を組み、盾と防毒マスクの機動隊と向き合っていた。たった一つの坂で、非暴力と国家の暴力が、真正面からぶつかり合っていたんです。
やがて政府は折れ、武力突入は行われませんでした。人々は逮捕されることなく、大聖堂を出ていく。その出来事は、独裁政権の「どうせ潰せる」という空気を折り、のちの政治の流れを決定的に変えていきます。
だから、ショッピング街と大聖堂の境目に立つと、めまいがするんです。観光客が何気なく登るこの坂は、追われた人たちが息を切らして駆け上がった坂でもある。
明洞は騒がしくて、派手で、徹底して商業的な街です。でもその地形の奥には、かつて不可侵の避難所になった場所が、今も静かに残っています。
