韓国のお寺は、たいてい山の中にあります。静けさを求めて、というより、そうせざるを得なかった歴史があるんですね。朝鮮王朝の時代、儒教が国の基盤になると、仏教は厳しく押さえ込まれて、僧侶たちは都から遠ざけられた。だから山へ入って、世俗から切り離された「山寺(サンサ)」の文化が育っていきました。
でも、釜山の海沿いにある海東龍宮寺は、その流れから完全にはみ出しています。
一柱門をくぐると、普通なら、奥へ、上へ、と歩いていくでしょう。ところがここでは、いきなり石段を下りていく。体が自然に構えるんです。山へ登る代わりに、海へ近づいていくから。
下りながら、音が変わっていきます。森の中のお寺なら、木魚や梵鐘が空気を支配する。でもここは違う。途切れない波の轟音が、岩にぶつかって砕けて、足元の花崗岩まで震わせる。海そのものが、巨大な鐘みたいに鳴り続けているんです。禅の静寂とは正反対の、荒々しい自然のエネルギーが、本堂のすぐ下まで押し寄せている。
この寺の由来も、海みたいに荒いんですよ。寺の説明では、14世紀に懶翁(ナオン)大師がこの地に寺を開いたとされていて、その後、16世紀の戦乱で焼け落ちた。長い空白を経て、20世紀に入って再建が始まり、時代ごとに少しずつ整えられて、今の姿になっていった、と。
そして再興の核として語られるのが、ある僧の祈りの伝承です。崖の上で祈り続けた末、荒波の中に龍と観音の姿を見た——そう伝えられていて、それが「龍宮寺」という名にもつながっている。
だからこそ、ここには山寺のような超然とした雰囲気があまりありません。むき出しの生存本能みたいなものが前に出る。丹青の極彩色も、潮風と塩が容赦なく剥がしていくから、塗っては守り、また塗っては守る。その繰り返し自体が、祈りに近い作業に思えてきます。
一番高い場所に立つ大きな海水観音も、内側ではなく、海を向いて立っている。漁に出る人たちの方角を、黙って見据えているんです。
この寺で手を合わせると、悟りがどうこうというより、「ここで祈らなきゃいけない理由」のほうが先に胸に来る。波の音に押されながら、祈りが観念じゃなく、暮らしの切実さと地続きのものに変わっていく感覚が残ります。
