あの階段を下りきる前に、目が吸い寄せられて、手が伸びてしまう像があります。布袋様みたいにふくよかな、お坊さんの石像。ところが、お腹の部分だけが、黒曜石みたいにツルツルで、黒く光っているんです。
ただ触られて滑らかになった、というだけじゃない。艶が、強すぎる。
この像は「得男仏」と呼ばれていて、男の子を授かるご利益がある、とされています。そして、この黒光りが何を背負っているのかを考えると、韓国に長く残っていた戸主制度のことに行き当たる。戸籍上の「家の主人」を中心に家族が編まれ、跡取りがいないことが、ときに女性の立場を不安定にしてしまう。制度としては2000年代に入ってから廃止されましたが、その価値観の圧は、もっと長く生活の中に染み込んでいました。
だから、ここに来た人たちは、静かに悟りを求めていたわけじゃないんです。自分の居場所や明日の暮らしが、目の前の結果に結びついている。そういう切実さのまま、石のお腹を何度も何度も擦る。その繰り返しが、石を黒く光らせていった。これは願いの痕跡というより、願いに追い込まれた時間の記録みたいに見えてきます。
海東龍宮寺の祈りには、どこか「契約」みたいな手触りがあります。願いが、頭の中だけじゃなく、動作とモノに変わっていくんですね。
撫でる。得男仏の腹は、その最たるものです。祈りが、手つきになって残る。
書く、もある。お布施をして屋根瓦に名前や願いを書き込むと、それがそのまま屋根の一部になる。願いが、寺の構造物に取り込まれていく。
そして、投げる。半月型の橋の下を覗き込むと、亀の石像がいて、その鉢に向かって参拝客がコインを投げ入れる。入ればよし、外れれば岩場に落ちて、波しぶきに濡れて光る。外れたコインが無数にあるからこそ、入った一枚が「当たった」感じになるんです。
撫でて、書いて、投げる。願いを叶えてほしい気持ちが、目に見える形で積み重なっていく。
帰り道、もう一度あの像の前を通ると、最初に見たときより、お腹の艶が生々しく感じられます。祈りって、きれいごとだけじゃない。触れた手の数だけ、背負ってきた事情がある。その黒光りは、ここで手を合わせた人たちの、いちばん正直な部分を映しているように見えるんです。
