釜山タワーの展望台まで上がったら、まず遠くを見たくなります。でも、ここで本当に目を向けたいのは、海じゃありません。真下の公園の、あのカーブした縁取りです。
タワーが突き刺さっている「龍頭山」という丘。実はここ、1678年に移された日本人の居留地、「草梁倭館(そうりょうわかん)」の跡地と、輪郭が重なっています。今は花時計やベンチが並び、観光客が歩く場所が、かつては壁で囲まれた隔離の区画でした。
頭の中で、アスファルトや屋台の気配を一度だけ消してみてください。代わりに、高い石の壁がぐるりと丘を囲み、門が閉まっている景色を置きます。長崎の出島が何個も入ってしまいそうな広さのなかに、対馬藩の武士や商人たちが暮らし、交渉と交易のために長く滞在しました。
ただし自由な町ではありません。朝鮮側は、交流を必要としながらも、日本人がこの土地に根を下ろすことを強く警戒していました。行き来は厳しく管理され、外へ出ることも、勝手に誰かを招き入れることも、簡単にはできない。閉鎖された場所は、それだけで人を疲れさせ、空気を歪ませます。
その内側でやりとりされたのは、銀や人参のような品だけじゃなく、相手の表情や言葉の癖でした。だからこそ、ここには「橋を架けよう」とした人もいます。対馬藩の外交官、雨森芳洲。相手の言葉を学び、誠意をもって向き合うしかないのだと説いた、と伝えられています。壁の中にいても、壁の外を想像し続けた人です。
ガラスに額を寄せて公園のカーブを見下ろしていると、この区画が、やがて一方的にほどかれていくことも思い出します。19世紀後半、制度は崩れ、釜山は開港を経て、別の力学に飲み込まれていった。そして近代のある時期、この丘には神社が建てられ、解放後に焼かれました。海の向こうがあんなに近く見える場所だからこそ、怒りもまた、すぐ届く距離だったのかもしれません。
今、隣でカップルが港を背景に自撮りをしています。その笑顔の足元には、壁の内側で門が開くのを待ちながら、同じ海を見つめていた人たちの時間が、輪郭だけ残して、静かに重なっています。
